中国国鉄

上海から2泊3日で蘭州2187km、寝台車
蘭州市内でSL撮影
蘭州から1泊2日フフホト経由で北京1811km、寝台車
北京から1泊2日で上海1460km、寝台車
上海から2泊3日で成都2659km、寝台車
成都から峨眉156km、座席車
峨眉から1泊2日で昆明944km、寝台車
昆明北駅付近でナローを撮影
上海から蘇州84kmを往復、座席車
一人旅の自由旅、ホテル探しも現地で

1987/12/26
年内に済ますべき仕事は前日までに済ませ、使わずに残しておいた年休(有給休暇)をまとめ取りして
10日間の中国一人旅を決行した。前年の韓国旅行に次いで僅か2度目の海外旅行で中国一人旅は少し勇気が要った。
基本的にと言うか原則的に当時の中国は自由な一人旅は出来なかった。どうやってビザを取得したのかは
40年近く経った今でもネットで発表するのは少し躊躇してしまう。だが、記録としてここに記すことにする。
おそらく個人が中国大使館に出向いて観光旅行のビザを貰おうとしても相手にされなかっただろう。
某旅行会社にお願いした。中国在住のそれなりの立場にある人の招待を受ければ中国に行く事ができる。
その制度は技術協力者とか学術調査関係者とか中国に出張所を設けてある大企業の社員のためにあると思われる。
実際、旅行中に列車の中で出会った日本人は農業の技術協力のため半年間中国に在住している日本の省庁の人だったし
北京の有名なホテルである北京飯店の中には日本の大企業の名刺がドアに貼られた部屋が幾つもあった。
さて話を戻すと私のビザ取得はそれを利用することになる。
もちろん私には中国在住のそれなりの立場にある人どころか唯の知人さえいない。
そこで、それを臨時収入にして一儲けしているそれなりの立場の人に、手数料(正直言えば賄賂に近い)を渡して
私を招待してもらう。その招待状を使って旅行会社が大使館でビザを取得してくれる仕組みだ。
当時、団体旅行ではなく個人の観光で中国入りした旅行者はおそらく皆同じ手を使っていたはずだ。
当時(今も?)海外自由旅行の最も頼れる手引書だった某ガイドブックにその旅行会社が掲載されていたのだ。
そんな訳で6000円の手数料を払いビザを取得し、あまり安くない上海往復の格安航空券をゲットした。
参考までに、前年の韓国旅行のビザ取得のことも書いておけば、自分で大使館に出向いて取得したのだが、
大使館の韓国人係員の対応があまりに酷くて、韓国に行くのを止めようかと思ったのを覚えている。
ちなみに韓国へは関釜フェリーで往復したので準備したのはビザだけで旅行会社は使っていない。
さて、いよいよ出発する。
最初の海外旅行が海上での往復だったので、飛行機に乗るのは始めてであった。
ちなみに国内線の飛行機に乗ったのは半年後の沖縄行きが最初である。岡山発那覇行きだった。
当然、成田空港に行くのも始めてであった。成田空港駅から空港ビルまで短い距離だがバスに乗る。警備上だろう。
朝、上海を発ってやって来た中国の飛行機の折り返しの便なので午後の出発だったが、無慈悲な遅れのアナウンスが
何度もあって成田を発ったのは日が暮れてからだった。上海に到着したのは夜9時頃だった。
公営のタクシーもあるのだが探すのが面倒だったので近寄って来た個人タクシーを利用した。
日本製の軽自動車で床には手の平大の穴が開いていて冷たい空気が入ってきた。水溜りの水も入ってきた。
上海駅で降ろしてもらった。夜10時を過ぎているのにものすごい混雑だ。照明は少なく良く見えない。
あまりの混雑で駅舎内に入れないので切符を買うのは諦めてホテルに向かった。歩いた。
ジャズバンドの演奏が行われているので有名な和平飯店に入ってみたら部屋が取れた。8千円位だった。
寝室にバスルーム、食事用の円卓のある部屋、それにマージャン用の部屋まであるスイートルームだった。
案内してくれたボーイがすぐ出て行かないのでチップを渡したら礼を言って出て行った。
疲れていたのと少し慌てたのとで10元札(約350円)を渡してしまったようだ。おそらく1日分の給料以上だろう。
12/27
上の階で朝食をとってから上海駅に直行した。ホテルのボーイにタクシーを頼んだのできちんとした公営車だった。
中国的なぽっちゃり型の車を期待していたがセドリックのようなスマートな車に青年の運転手だった。
「上海駅(シャンハイジャン)へ」と言ったら「北駅(ペイジャン)ですね」と返事。不安だったが否定しなかった。
おそらく北に向かう列車の駅を市民は「北駅」と呼んでいるのだろうと思っていたら、はたして車は昨夜の駅に着いた。
埃だらけの物置のような大きくない部屋でその夜の蘭州行き直快の軟臥(日本のA寝台)の切符をゲット。


ホテルに荷物を預けたまま市内観光して再び上海駅に。軟臥専用の待合室で少し待つと係員が来て大きなドアを開いた。
なんと開いたドアの前はホームで、待っていた列車が目の前に停まっており、軟臥の車両がその位置にある。
すばらしい!!中国を侮ってはならない。なんと言う心配り。但し軟臥だけのサービスだが。
何度も階段を上がったり下ったりした挙句ホームで立ちっぱなしで列に並ぶ日本の駅は見習うべきだ。
客車の入口には乗務員が一人ずつ立っていて、軟臥の入り口はベテランだろう。珍しくきびきびして愛想も良かった。
23:02定刻の出発だったと思う。夜11時過ぎの遅い時間に始発駅の上海駅を発車する。外は暗くて見えなかった。
乗車すると車掌が切符を預かりにきた。中国では少なくとも長距離列車では切符は車掌が管理する。下車駅が近づくと
持ってきてくれる。降りそこねることはないので安心だ。切符は本来、運送契約書であって運送側の所有物である。
さて目が覚めた時、列車の走る向きは換わっていた。列車番号は176次から177次につまり偶数から奇数に換わる。
何を意味しているかと言えば北京に向かうのが偶数、北京から地方に向かうのが奇数。これは日本も同じである。
したがって上海から北京に向かって北向きに走っていたのが、途中の駅で北京から遠ざかる西に向きを換えたのだ。
窓外の景色は余り変わらない、黄河の南側の黄土地をひたすら西に向かう。
1時間おき位に大きな駅に停まり、乗客は8分位の停車中にホームに降りたり窓から食料を買い込む大騒ぎとなる。
2日目の西安の手前の駅だったと思うが私もホームに降りてみた。ホームの風景と私の写真です。




車掌は自分の受け持ちの車両の清掃を乗務中に何度も行いますが、停車中に外の拭き掃除もします。


西安と蘭州の間の山間部にある天水に停車です


黄土地は風景が乾燥しています。小さな駅でも駅舎はきちんとしていますが通過します。




食堂車ですが軟臥の客には予約を取りに来てくれました。日本と違って食材を最初から料理します。


3日目になり黄河に沿って走る列車の車窓


蘭州着は定刻通り15:31に着いたと思う。
私のコンパートメントには西安からの同乗者がいて筆談で話をしました。大学の教授でしたが気さくな方でした。
その方がホームまで見送りに出てくれて写真を撮ってくれました。背景には人民服の人が写っています。


蘭州は工業都市で駅前から中国っぽくなかった。1時間ほど歩いて当てにしていたホテルに着いた。
無事チェックイン。中国では常に大きなホテルに泊まった。全て飛び込みだか難なく泊まれた。
外人の切符の手配は中国国際旅行社という部署が引き受けてくれる。蘭州発北京行きの切符はそこに依頼した。
ホテルから徒歩10分程のところに事務所があり青年が一人番をしていた。気持ちよく対応してくれ
翌日取りに行って無事ゲットできた。その中国国際旅行社に世話になったのはその時一度だけである。
切符を入手した後、のんびり市内を歩いて見学。市内の無人駅では回送のSL重連に出会いました。
市内と工業地帯の間だけ複線になっている様でしたが列車本数は少ない感じでした。
このホームだけの無人駅もおそらく朝夕の通勤時間だけ使用されるのだと思います。




蘭州には2泊しただけで、いよいよ蘭州発北京行き44次特快に乗ります。
コンパートメントで一緒だった大学教授は44次特快に乗る予定だと話したら感激してくれました。
丁度、日本で言えば昭和30年代の津軽地方における「津軽」号みたいな存在のように思います。
朝8:33定時発車。列車は町外れで黄河を渡り、殺伐とした砂漠地帯に入りました。


軟臥車の通路です。落ち着いた雰囲気です。
この日は12月31日。軟臥の車内が空いていたのは大晦日だったからでしょうか。


軟臥のコンパートメントの内部です。上下2段の4人室です。カーテンは無く、寝台幅は狭いです。
日本と異なる特徴は、梯子が無く、ドアの横をよじ登ります。お湯の入った魔法瓶があります。
車両の端に湯沸し機が有り誰でも何時でも利用できます。軟臥車では乗務員がやってくれます。


砂漠地帯も走るタフな足回りです。空気バネではありませんが乗り心地は悪くありません。


牽引しているのはSLです。途中駅で給水します。


凍結した草木の無い地帯を走ります。




途中の中心駅のフフホトです。日本でいえば冬の名寄みたいな感じです。


線路は複線になり牽引機もSLからDLになりました。旅客列車とすれ違いました。






















北京に近づいてもSLは見えました。SL=地方ではないようです。










2日目の夕方、北京の北にある山地を抜けます。万里の長城が見えます。


元日の19:51の定刻だったと思います。北京駅に到着しました。歩いて北京飯店に行きました。
豪華な部屋でした。日本円で約1万円しました。翌日朝、快晴のもとでホテルを撮りました。


北京では地下鉄にも乗ってみました。天安門広場も歩きました。見所は沢山有りますが
長居せず翌日、上海に向かいます。上海行きの切符も難なくゲットできました。


北京駅の内部です。エスカレーターで2階に上がるとホームへの跨線橋に続きますが
軟臥客用の待合室は両サイドのエスカレーターの間の1階の奥にあります。


上海行きの13次特快は北京と上海を結ぶ停車駅の少ない特別の特快のひとつなので
上海駅と同様に駅舎よりのホームからの出発で、待合室を出るとそこに軟臥車が停まっています。


車体の塗装も特別仕立てでエアコンも付いています。




4人部屋は日本人が集められ満室になりました。4人で一緒に食堂車を利用しました。
北京駅を定時の14:40に発車し、次の天津に停まったのだけは記憶がありますが
同室の日本人と一緒に食堂車で食事をし部屋でも話が弾んで、そのまま寝てしまいました。
翌日1月3日の朝、上海駅はもうすぐですが、その手前で列車が停まりました。
信号待ちだと思っていたら、窓の外はホームのようで人が歩いているのが見えました。
同室の人がここで降りるのじゃないかなと言うので、合点が行かないままホームに降りました。
なんと、そこが上海駅だったのです。出来たばかりの新しい上海駅。7:39定時に着いたようでした。
広い地下道を降りた人たちが津波のように歩いていきます。
地下道を出て駅前広場に一人佇みました。どうやら上海駅の歴史的瞬間に立ち会ったようです。
8日前の年末、上海を出発する時の上海駅が古くて狭くて埃っぽくて汚くて貧しげだったのは
移転作業も終盤の廃止直前の残された機材で業務をこなしていた「旧」上海駅の姿だったからです。
おそらく新年を迎えて、元旦から新しい上海駅が開業したのでしょう。
新しくなった上海駅は大きく美しく近代的です。駅前広場もものすごく広くなっています。


1989/12/23
天安門事件が起きた年の暮れ再び上海にやって来ました。
流石に事件のあとなので乗客は中国人ばかりで日本人は私以外にいなかった様に思います。
中国人の日本への旅行者が増え、アルバイト目的の留学生の増加が少し社会問題になっていた頃です。
曜日の関係で23日から休みが取れ、その日の夜には上海に着きました。再び和平飯店に1泊。
翌日24日、今度は上海から成都に向かいます。成都の近くにある三千メートル級の峨眉山に登るのが目的です。
さっそく新しくなった上海駅に向かいました。あれから2年経ちますがまだまだ新しさが新鮮です。


上海駅の内部です。


20:05上海駅発車成都までの2659kmを2泊して走ります。
成都までの車窓です。








何のための列車でしょうか。白い車両は目立ますから軍事用ではないでしょう。


成都には3日めの19:01に着きました。定刻だったと思います。
バスで駅から離れたところのホテルに行きました。バスに乗るのも慣れました。難なく部屋も取れました。
成都から峨眉駅までは軟座車を利用しました。4人のボックス席で日本のサロ80型に似ていました。
贅沢ですが、原則的に外国人は硬臥車や硬座車は切符が買えません。外国人価格で買わされます。
峨眉山に登山中、雲が晴れてコンガ山7556mが見えました。峨眉山から200kmほど離れています。
生で初めて見る7000m級の山でした。山頂の小屋に1泊して下山し峨眉駅に戻りました。

峨眉山の山頂です。立派な石碑が中国的です。


峨眉駅


峨眉から昆明まで1日1本の急行夜行列車に乗りました。この間には旅客列車は1日2本しかありません。
日本人はめったに来ないのでしょう。峨眉駅では切符を買う時に駅長室に案内されました。
山岳地帯を通る軍事路線なのでガイドブックには撮影禁止と書かれていましたが、撮りました。
この列車の軟臥車には部屋は別でしたが私より10歳位上の日本人が乗っていました。
その人が通路からさかんに写真を撮っていたので言い訳のようですが真似をしたのです。
その人は日本政府から中国に派遣されている農業指導者で北京から旅行中とのことでした。






















昆明は高原都市ですが少数民族の多い地域の中心都市でもあります。私はバスで有名な石林へ行きました。
昆明で4泊位して新年を迎えました。昆明市内からベトナムまで狭軌の鉄道があります。






昆明から上海へは飛行機を利用しました。上海に戻って遊覧船に乗ったり雑技団を見たりしました。
蘇州という町まで日帰りしました。歩いたりバスに乗ったりして町を見学しました。
蘇州の町外れで


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